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ピートグレイさん『勝者は決して諦めない』

感動の実話です。
ピートグレイさんは、1917年ペンシルベニア州ナンティーコークというところで生まれました。
彼は機関車と野球が好きな普通の少年でした。

ある日、父親に連れられて大リーグの試合を見に行きます。ニューヨークヤンキースが大好きだった彼。
ヤンキースタジアムで見たその試合。ヤンキースの攻撃9回裏2アウトランナー1塁、1対 0、ヤンキースが負けていました。

少年ピートは、隣にいるお父さんにいいました。「パパ見てて僕の大好きなあのバッターが必ずホームランを打って、さよなら勝ちするからね、きっと見てて勝てるよ」と、お父さんはニコニコしながら彼を見てました。

果たして結果はどうなったか。

運命のいたずらとは恐ろしいですね。ピートの予言通りに、本当にさよならホームランが出たんです。
ヤンキースは見事さよなら勝ちをしました。その試合を見たピートは感動しました。
そして、この日から大リーガーになることを夢見て努力を始めました。

大リーグの世界、知ってびっくり。下から「Dリーグ」「Cリーグ」「Bリーグ」「ルーキーリーグ」「Aリーグ」「AAリーグ」「AAAリーグ」やっと大リーグになるんです。彼は大リーグを目指して、それはもう「挫折との戦い」「苦悩の日々の連続」でした。

6才の時、ある事故により野球を断念しようと思いました。その時お父さんが彼にかけた言葉、それが「諦めるな、やればできる」でした。ピートはお父さんのその言葉だけを胸に信じ、血のにじむような努力を始めます。草野球チームに入りますが、一度も練習には参加させてもらえませんでした。

しかし彼は不平をいわず毎日玉拾いをし、一人で素振りの練習しました。そして、そのかたわら野球学校へ通いました。野球学校へ通いながら、いろんな球団の入団テストを受けました。どうなったか? ピートはことごとく入団テストに堕ちてしまったのです。

そしてピートはどうしたか? お父さんの言葉通り諦めませんでした。雨の日も風の日も黙々と練習を続ける彼の姿を見て、心を打たれた学校の先生がいました。先生は、全米のDリーグの監督に電話をかけました。
「うちにピートという熱いやつがいる。見に来てくれないか。お願いします。」その電話に触発され、Dリーグの監督が集まってきました。そしてピートの晴れ舞台です。そこでピートは全力でプレーを見せました。
しかし、どこの球団も彼を雇おうとはしませんでした。

ピートはどうしたのか? 打ちひしがれたのか? いいえ、それでもピートはめげませんでした。一途に努力する彼。
当然、幸運の女神が見はなすはずはないんですよね。

24才の時、ニューヨークのセミプロ球団「ブッシュウイックス」から声がかかりました。彼は「大好きな野球ができる。僕はセミプロ球団でもかまわない」喜んで入団しました。そこで彼は素晴らしい成績を残しました。
こういう活躍を見てるひとがいるんですよね。その活躍を見ていたマイナーリーグの「スリーリバース」という球団の監督が大抜擢します。何とピートはこの「スリーリバース」で打率3.81。素晴らしい成績を残します。

このような相次ぐ大抜擢にも全くおごること無く、努力を続けるピートに次々と幸運の扉が開かれました。
1943年、AAAの「メンフィス・チックス」に昇格。彼はついにこのチームでMVPを獲得しました(打率333、盗塁68)。
ついに夢の叶う時がやってきました。1945年大リーグの「セントルイスブラウンズ」がピートの採用を決定しました。

そしてピートの初打席です。彼は大きく息きをすって、バッターボックスに入りました。 1球目空振り、2球目空振り、3球目空振三振とピートの初打席は、三振に終わりました。でもその三振を見て、スタンドの観客達は総立ちになり、終わらない拍手を送りました。 

おかしいですよね??

三振して拍手なんてあり得ないですよね。その球場の観客達は、そのピートの姿に釘付けにされていました。
実は彼は6才の時の事故で、右腕を根元から切断されていました。大好きな機関車を見に行って、その下敷きになったんです。泣きじゃくるピート。6才にして片腕を無くしたピートに、父親がかけた言葉が、それが「諦めるな」だっだのです。お父さんはこう言いいました。

「あの時、もしも彼から野球という夢まで奪ってしまえば、もう彼には何も残らない。
「諦めるな」と言うしか他になかったと。

そしてその言葉だけを信じ、罵られ、差別を受け、練習にも参加させてもらえない。ずーと入団テストに堕ち続けた。
その苦い思いを乗り越え、営々と努力し続けた彼。その偉大な三振に、観客は惜しみない拍手を送りました。
でも彼が大リーグに採用されたのは時が遅かったんです。寄る年並には勝てず、彼は1年でその生活にピリオドを打ちます。

そして故郷に帰り少年野球の指導をし、87才で生涯を閉じます。彼が亡くなる前、我々に残した言葉があります。
この言葉で締めくくりたいとおもいます。

「私の子供の頃の夢は、ヤンキースタジアムで野球をすることでした。そして、それを叶えられたことが自分の人生にとって、もっとも素晴らしい出来事だったと思います。自分のような体に障害をもつ者にとって、練習こそが全てでした。でもたとえ練習しても自分にやってくるチャンスはわずかなものでした。

ある時こう言われたことがあります。「両方の腕があっても野球をするのが難しいのに、片腕で野球なんかできるわけがないだろう」それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。

最後に好きな言葉を送ります。『勝者は決して諦めない。』-ピートグレイ

著:佐藤創紀 →https://www.gdl-j.co.jp/archives/001031.html
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